スリー・ビルボードを見たという話

映画『スリー・ビルボード』を見ました。
ネタバレはしないつもりですが、前情報はシャットアウトした方が面白い作品だと思うので、興味のある方は映画館に行かれた方がベストです。 

 

人は多面性があるんですよ〜と言うのは簡単なんだけど、映画として成立させるにはどうする?という中で、その塩梅がいい感じで素敵だった。
裏側のみ切り取られているかのようなあの母親もある意味リアルだし(特に家の中で、それは家庭の中という意味で、ああいう偏向な人っているだろうな?と思える)、主人公の息子や看板屋の黒人の彼もすごく良かった。元旦那の現彼女がうっすら(観客にとってはとにかく底抜けにバカなんだけど)バカなのもよかった。でもバカだけど悪い子じゃない感じがまたニクい。
主人公の彼女が、彼女というか彼くらいの立ち居振る舞いで、ちょっとどういう風に心情に寄り添う努力をすればいいのか形容しがたい感じなのも面白い。
自分は基本的に怒りの導火線がとても短いので、特に中盤までは、まさに身につまされるような気持ちでドキドキだった。見てる最中ずっと反省していた。反省するだけじゃ意味ないんだけど。

やっぱり、一番ハッとしたのは、広告屋の彼の行動ではないだろうか?
キングスマン2 を見てカントリーロードが涙なしに聴けなくなるのと同じように、オレンジジュースもまた、これからはニヘラニヘラ笑って飲めない。(実際はニヘラニヘラ笑って飲むほうがおそらくオレンジジュース的には本望だと思うけど)

全体的に、(キリスト教の教えの基礎もわかっていないのだけど)これは多分そういう教えがベースにあるんだろうな…という風に感じた。
“赦し”の話だなと。
先週のアンナチュラルで中堂氏が言ったように、生きている私たちは、許されるように生きるしかないのかもしれない。
それは、死んでしまった人であれ、神であれ、自分であれ。もがき苦しみ憎みながらも、その炎に自分が焼かれないために、どうすべきか。
その答えこそ道々考えればいいことなのかもね、という、苦味と爽やかさが後味となって奇跡のバランスで残る、なんとも形容のしがたい作品でした。 

もっとも、単純な自分としては、真犯人が見つかって、すごくすごい感じでやっつけてほしくもある。でも彼らが苦しむのは見たくない。だから私が代わりにイコライザーのロバート・マッコールさんに今すぐ依頼を送りたい。ボストンから遠いかもしれないけど、、、